
北海道の食品メーカーが技術承継を成功させる人事の仕組み——「あの人がいなくなったら終わり」から脱却する
目次
北海道の食品メーカーが技術承継を成功させる人事の仕組み——「あの人がいなくなったら終わり」から脱却する
「正直に言います。うちの味噌の仕込みは、あのベテランにしかできないんです。来年定年なんですが……」
旭川の食品メーカーの社長から、こう相談されたことがあります。北海道は食品産業の宝庫です。乳製品、水産加工品、農産物の加工品、酒造——数えきれないほどの食品メーカーが、北海道の豊かな食材を活かしたものづくりを続けています。
しかし、その技術の多くが「特定の個人」に依存している。ベテラン職人の経験と勘に頼った製造工程、文書化されていないレシピ、暗黙知として蓄積された品質管理のノウハウ。この状態は、「あの人がいなくなったら終わり」というリスクと裏表です。
私はこれまで500社以上の企業の人事を支援してきましたが、技術承継は人事の中でも最も難しく、かつ最も重要なテーマの一つです。この記事では、北海道の食品メーカーが技術承継をどう設計すべきか、人事の仕組みとして考えていきます。
技術承継の問題はなぜ「後回し」にされるのか
技術承継の重要性を否定する経営者はいません。しかし、実際に体系的な取り組みをしている企業は少ない。なぜ後回しにされるのでしょうか。
理由1:目の前の生産が優先される
毎日の製造ラインを回すことが最優先。「技術承継に時間を割く余裕がない」というのが、多くの食品メーカーの現場の実感です。ベテランも若手もフル稼働で製造に当たっている中で、「教えるための時間」を確保するのは容易ではありません。
しかし、これは短期的な最適化であり、中長期的には大きなリスクです。ベテランが退職した後に技術が失われれば、生産自体ができなくなる可能性がある。「今忙しいから」という理由で技術承継を先送りすることは、将来の事業継続リスクを積み上げていることに他なりません。
理由2:暗黙知の存在
食品製造の技術には、言葉にしにくい「暗黙知」が多い。「生地の硬さは手で触ればわかる」「発酵の進み具合は匂いで判断する」——こうした感覚的な知識は、マニュアルに書きにくい。
「書けないから伝えられない」と思い込んでいるケースが多いのですが、実はそうではありません。暗黙知を「完全に文書化する」ことは難しくても、「ある程度まで言語化し、残りを直接指導で伝える」ことは可能です。重要なのは、「暗黙知だから仕方ない」で止まらないことです。
理由3:ベテランの心理的抵抗
これは意外と見落とされている要因です。ベテラン職人にとって、自分の技術は長年かけて磨き上げた「財産」です。その技術を後輩に教えてしまうと、「自分の存在価値がなくなるのではないか」という不安を感じる人がいます。
この心理は理解できます。しかし、「技術を教えること」がベテランの新たな役割であり、新たな存在価値であるという位置づけを、会社として明確にすることが重要です。「あなたの技術を次の世代に伝えることが、今の最も重要な仕事です」——このメッセージを経営者から直接伝えることで、心理的抵抗は和らぎます。
技術承継を「人事の仕組み」として設計する
技術承継を個人の善意や自発的な取り組みに頼るのではなく、人事の仕組みとして組み込むことが成功のカギです。
ステップ1:技術の「棚卸し」を行う
まず、自社にどんな技術があり、誰がその技術を持っているかを一覧化します。
- 技術の名称(例:味噌の仕込み、チーズの熟成管理、燻製の温度制御)
- その技術を持っている人(名前・年齢・退職予定時期)
- その技術の代替可能性(他に同じことができる人がいるか)
- その技術の事業への影響度(この技術がなくなると売上にどう影響するか)
この棚卸しを行うと、「技術承継のリスクマップ」が見えてきます。「退職まで3年、代替者なし、売上影響大」——こういう技術が最優先で承継すべき対象です。
帯広の乳製品メーカーでは、この棚卸しを行った結果、12個の重要技術のうち5個が「保有者1名のみ、退職まで5年以内」という状態であることがわかりました。「早く手を打たなければ」という危機感が、全社的な技術承継プロジェクトの起点になりました。
ステップ2:技術の「見える化」を行う
技術を文書化・映像化し、「見える」状態にします。
- 作業手順書:基本的な手順を文書化する。写真やイラストを多用し、「見てわかる」ものにする
- ビデオ撮影:ベテランの作業を動画で記録する。特に「手の動き」「判断のタイミング」など、文字では伝わりにくい部分を重点的に
- 判断基準の数値化:「手触りで判断する」を「温度○度、湿度○%の時に○○する」のように、可能な限り数値に置き換える
- 失敗事例の記録:うまくいかなかった時の原因と対処法を記録する。「この色になったら発酵が進みすぎている」といった異常の判断基準が特に重要
すべての暗黙知を文書化する必要はありません。「80%は文書で伝えられる。残りの20%は直接指導で伝える」——この割り切りが大切です。80%の文書があるだけで、承継の速度と確実性は大幅に向上します。
ステップ3:承継の「計画」を立てる
技術承継は「いつ、誰が、何を、どのように」伝えるかの計画が必要です。
- 承継期間の設定:技術の難易度に応じて、1年〜5年の承継期間を設定する
- 承継者の選定:技術を引き継ぐ人材を選ぶ。適性、意欲、年齢バランスを考慮する。1つの技術に対して2名以上の承継者を設定するのが理想的
- ステップの設計:段階的に技術を伝える計画を作る。「見学→補助→実践(指導付き)→実践(自立)→指導者」の流れ
- 評価の基準:承継がどこまで進んだかを評価する基準を設ける。「○○の作業を一人でできる」「品質検査で○○を判断できる」など
ステップ4:「教える」を評価する仕組みを作る
技術承継において最も重要なのは、「教えること」が正当に評価される仕組みを作ることです。
ベテランにとって、教えることは「本来の仕事の合間にやる余計な仕事」ではなく、「会社から正式に任された重要な仕事」であるべきです。
具体的には以下の仕組みが効果的です。
- 技術指導手当:後輩の指導を行うベテランに、月額の手当を支給する
- 評価項目への組み込み:「技術の伝承」を人事評価の項目に加える。指導の量と質を評価対象にする
- 指導者としての肩書き:「マスター職人」「技術伝承責任者」など、指導者としての公式な役割を付与する
余市の酒造メーカーでは、「杜氏候補育成プログラム」を設計し、杜氏(とうじ)のベテランに月5万円の「技術伝承手当」を支給しています。杜氏は「自分の技術を伝えることが、残りの職業人生で最も重要な仕事だ」と受け止め、積極的に指導に取り組んでいます。
テクノロジーを活用した技術承継
技術承継は「人から人へ」が基本ですが、テクノロジーを活用することで、承継の精度と効率を高めることができます。
IoTセンサーによるデータ化
食品製造の工程に各種センサーを設置し、温度、湿度、発酵度合い、攪拌速度などをデータとして記録します。ベテランが「感覚」で判断していたポイントを、データとして可視化できるようになります。
「この温度帯でこの湿度の時に、ベテランはこういう判断をした」——このデータの蓄積が、ベテランの暗黙知を数値に変換するプロセスです。
函館の水産加工会社では、干物の乾燥工程にIoTセンサーを導入し、「ベテランが"いい具合"と判断した時の温度・湿度・時間」を1年間記録しました。このデータを分析した結果、ベテランの判断を80%以上の精度で再現できる条件設定が可能になりました。
動画マニュアルの整備
文字では伝わりにくい技術を、動画で記録・共有する取り組みは、多くの食品メーカーで効果を上げています。
動画マニュアルのポイントは以下の通りです。
- 全体の流れを撮影した「通し動画」と、重要ポイントを切り出した「ポイント動画」の2種類を作る
- ベテランの「ここがポイント」というナレーションを入れる
- 「良い状態」と「悪い状態」の比較映像を入れる
- 定期的に更新する(技術は進化するため)
ナレッジベースの構築
技術承継に関する情報を一元管理するデータベースを構築します。作業手順書、動画マニュアル、品質基準、トラブル事例——これらを検索可能な状態で蓄積しておくことで、承継者が必要な時に必要な情報にアクセスできるようになります。
事例:技術承継に成功した北海道の食品メーカー
事例1:十勝のチーズメーカー(従業員20名)
この会社では、創業者の息子である2代目がチーズの熟成技術の承継に取り組みました。
創業者(70代)の熟成判断は、チーズの表面を指で押した感触と、切った断面の色と艶で行われていました。この暗黙知を承継するために、以下の取り組みを行いました。
- 3年間にわたり、創業者の判断を横で観察し、ノートに記録
- 同時に、物性測定器(硬さ・弾力を数値化する機器)でデータを取得
- 創業者の「良い」「もう少し」「やり直し」という判断と、数値データの対応関係を分析
- 判断基準をチャート化し、新入社員でも参照できるマニュアルを作成
「父の"これだ"という感覚を完全には再現できないかもしれない。でも、90%まではデータと経験で到達できる。残りの10%は、自分なりの感覚を磨いていくしかない」——2代目のこの言葉は、技術承継の本質を突いていると思います。
事例2:札幌の菓子メーカー(従業員50名)
この会社では、看板商品の製造を担うベテラン職人3名が5年以内に退職予定という状況に直面しました。
対策として、「技術承継プロジェクト」を発足。人事部門と製造部門が連携し、以下のスケジュールで承継を進めました。
- 1年目:技術の棚卸しと文書化。ベテランへのインタビューを月2回実施し、レシピと判断基準を記録
- 2年目:承継者3名を選定し、ベテランのもとでのOJTを開始。週2日を「承継の日」として通常業務から外す
- 3年目:承継者が主担当として製造を行い、ベテランは監督役に。品質が基準を満たすかを検証
- 4年目:ベテランは「技術顧問」として週2日勤務。承継者は完全自立
このプロジェクトにかかったコスト(ベテランの追加勤務、承継者の通常業務の代替要員など)は年間約500万円。しかし、「看板商品の製造が止まるリスク」を金額に換算すると、年間売上の30%(約3億円の場合9,000万円)に相当します。投資対効果は明らかです。
「技術承継」を超えて——組織の知的資産を守る
技術承継は、製造技術だけの話ではありません。顧客との関係性、仕入先との信頼関係、品質管理のノウハウ、市場への嗅覚——企業が長年にわたって蓄積してきた「知的資産」すべてが、承継の対象です。
北海道の食品メーカーが持つ知的資産は、この地域の風土・食材・文化と深く結びついています。十勝の大地で育まれた乳製品の技術、知床の海の恵みを活かした水産加工の技術、上川盆地の気候が生み出す日本酒の醸造技術——これらは、北海道の食品メーカーにしかない固有の強みです。
この強みを次の世代に引き継ぐことは、一企業の経営課題であると同時に、北海道の食文化の継承という社会的な意義を持っています。
まとめ:技術承継は「今日」始める
技術承継は、「いつかやらなければ」と思いながら先送りにされがちなテーマです。しかし、ベテランの退職は待ってくれません。明日、ベテランが体調を崩して長期休職に入ったら、その技術はどうなるか。この問いに答えられないなら、今日から技術承継に着手する理由は十分です。
まず、今日できることは一つだけ。自社の重要技術を担っているベテランのリストを作ってください。名前、年齢、退職予定時期、担当技術、代替者の有無。このリストが、技術承継プロジェクトの出発点です。
「あの人がいなくなったら終わり」——この状態を、人事の仕組みで変えていく。それが、北海道の食品メーカーの未来を守ることにつながります。
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